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「さあ、立て、ここから出かけよう」
ヨハネによる福音書14章25~31節
水田 雅敏
今日の聖書の箇所はヨハネによる福音書の14章の25節から31節です。
31節に「さあ、立て、ここから出かけよう」という主イエスの言葉があります。今日の箇所はこの言葉で終わります。
27節に「心を騒がせるな。おびえるな」という言葉があります。弟子たちの中におびえがあるのです。「ここから出かける」勇気がないのです。
30節に「世の支配者が来る」という言葉があります。主イエスはこのあと世の支配者の手下に捕らえられます。主イエスとの別れが弟子たちにやって来ます。彼らは死の危険にさらされます。だから、おびえがあります。そのおびえる弟子たちに向かって、主イエスは「さあ、立て、ここから出かけよう」と呼びかけておられるのです。
「さあ、立て、ここから出かけよう」。この言葉を読むたびに、代々のキリスト者たちは、「わたしと一緒に出かけよう」と自分たちに声をかけてくださる主イエスの声を聞き取ってきました。
礼拝の終わりに祝祷がなされます。祝祷は派遣の言葉でもあります。礼拝を献げた人たちが神によってこの世に遣わされていく言葉です。
私は、この祝祷をして会衆の皆さんを送り出す時に、自分の信仰の幻の中で思い浮かべることがあります。それは主イエスが皆さんと一緒に出て行かれる姿です。主イエスが「さあ、みんなしっかりやるんだよ」と見送るのではなくて、むしろ主が先立って出かけられます。そのあとをついて、皆さんが次々とここを出て行くのです。
「心を騒がせるな。おびえるな」。おびえを知っているというのは信仰の戦いをしている証拠です。信仰の戦いをしていない人はおびえることはありません。
主イエスは、私たちが、ここでしばらくの間、安息を楽しむだけでなく、出かけることを求めておられます。そして、教会堂の外に一歩足を踏み出した時に、既におびえが始まることを知っておられます。
聖書の言葉を聞いた者として家族のところへ帰って行きます。職場の仲間のところへ戻って行きます。学校生活を始めます。その時に勇気が出ません。聖書の言葉に励まされているけれども、なかなかその通りに生きることができません。主イエスはそのような私たちの思いをよく知っておられたと思います。
ですから、25節から27節にこのような言葉を残してくださいました。「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」
ここで二つの言葉に注目しましょう。
一つは、26節の「思い起こさせてくださる」という言葉です。
私たちキリスト者は日曜日が週の初めだと考えます。それは主イエスの復活を覚えて日曜日に礼拝を献げるからです。礼拝を献げるとどうなるのでしょうか。神の霊、聖霊を受けます。聖霊を受けると何が起こるのでしょうか。主イエスのことを思い起こします。
説教というのは、そのような意味で、聖霊の助けなくしては語ることのできない言葉です。説教者は聖霊が会衆に働くことを信じて語っています。そして、そこで期待するのは、聖霊が働いて、主イエスの言葉、主イエスの業を思い起こすことです。神が主イエスを通して私たちのために何を語り、何を成し遂げてくださったかということを思い起こすのです。
もう一つ注目したいのは、27節の「平和」という言葉です。
主イエスが、お与えになる平和とは何でしょうか。
主イエスの言葉に送り出されて、このあと弟子たちは出かけて行きます。海を越え、山を越え、艱難や辛い苦しみに耐えます。人々にいじめられ、捕まえられ、辱められます。そして、遂には殉教の死をも覚悟します。いったいどこに平和があるのでしょうか。
私たちも主イエスと一緒に出かけて、自分の家で、自分の職場で、学校生活で、御言葉に生きようとします。主イエスが求めておられる愛に生きようとします。しかし、そこには労苦が重なります。どうしていいか分からなくなります。そこで、「せめて、いつの日にか主イエスが与えてくださる平和を知る時があるかもしれない」と思います。あるいは「私は遂に平和を知らないままに死を迎えてしまうのだろうか」と思います。主イエスが告げておられる「平和」とはいったい何でしょうか。
ヨハネによる福音書は、主イエスが与えてくださる「平和」について、それほど多くのことを語っていません。その中で特に注目したいのは、主イエスが復活されてからあとの20章の19節以下に書かれている出来事です。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」
ここに示されているのは恐れのただ中で与えられる平和です。弟子たちには依然として恐れがあります。しかし、そのただ中で主イエスの平和を知るのです。喜びに満たされるのです。この主イエスの「平和」が与えられなければ、私たちは日々の歩みを始めることができません。
弟子たちにその平和が与えられたのは「週の初めの日」でした。私たちが日曜日を何よりも重んじるのは、そのためです。
14章に戻ると、主イエスはこんな言葉を語っておられます。30節から31節にこうあります。「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。」
ある人はこの言葉について次のように言い換えました。「世の支配者、悪魔が来る。しかし、悪魔は主イエスに危害を加えることはできない。手を出すことはできない。なぜなら、主イエスは何一つ罪を犯しておられないからだ。罪を犯しておられない方に悪魔が住むわけにいかない。悪魔が支配するわけにいかない。そして、我々も、まるでその主イエスと同じように、悪魔の住みかになることはあり得ない人間であるかのように、主イエスのもとに立つことができる。その業を行うことができる。その時、世は主イエスが神の独り子だったことをはっきりと知る」。
主イエスの業、主イエスの弟子である私たちの業を通して、世の人々は退けられるのではありません。神がその独り子を与えてくださったほどに愛してくださっていることを世の人々は知るのです。
これはとても明るい展望です。主イエスと共にいる時、私たちは世について、人間について、望みをもって生きることができるのです。
「さあ、立て、ここから出かけよう」。このように主イエスによって励まされているのですから、主と共に生きることが許されているのですから、私たちも平和のうちに勇気をもってここから出かけてゆきたいと思います。
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