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「主イエスに属する者」
ヨハネによる福音書15章18~27節
水田 雅敏
今日、私たちに与えられた聖書の箇所はヨハネによる福音書の15章の18節から27節です。
この18節以下の所は「迫害の予告」と題されています。主イエスは翌日には十字架にかけられます。そうした緊迫感の中で語られた言葉がここには記されています。
これまでの15章の1節から17節では「愛」という言葉が軸となって主イエスと弟子たちとの関係が語られていました。
例えば、9節にこうあります。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」
また、12節にこうあります。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」
さらに、13節にこうあります。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
ところが、今日の18節以下では一転して「憎しみ」という言葉が軸になっています。主イエスとこの世、ひいては弟子たちとこの世の対立関係が示されているのです。
ちなみに「憎む」という言葉は新約聖書全体では40回、ヨハネによる福音書全体では12回出てくるそうです。そのうち8回が今日のこの段落に集中しています。主イエスと弟子たちがいかに強烈にこの世の憎悪の的になるかということが示されているのです。
主イエスとこの世の関係は二面的です。
一方で、この世は主イエスの伝道の対象であり、愛の対象でした。
3章の16節から17節にこうあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
しかし、他方では、この世は主イエスを認めず、主を憎みます。
1章の10節から11節にこうあります。「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」
それゆえ主イエスは世を裁くために来られたのではないにもかかわらず、結果として世に対する裁きとならざるを得ませんでした。
3章の18節の「信じない者は既に裁かれている」という言葉はそうした状態を指しています。
世は主イエスを憎み、迫害し、殺そうとします。それは、主イエスがまことの光であるがゆえに世の偽りを見抜き、その罪を明るみのもとに置くからです。それゆえ主イエスの存在や言動は世の人々にとっては大きな脅威でした。主イエスの言葉は真実をついているがゆえに無視できません。主イエスという光が眩し過ぎるのです。
主イエスは神の光をこの世で映し出す鏡のような存在でした。そこでは何もかも映し出されます。見たくないところまで見えてしまいます。だから、その鏡を壊してしまえばもう安全だと人々は思ってしまったのです。
旧約聖書の時代には神の意志を伝える人として預言者が立てられました。誰も言おうとしない、しかし誰かが言わなければならない真実を告げるのが預言者でした。それゆえ預言者は憎まれ、迫害されました。
預言者エレミヤもその一人です。ある日、エレミヤは神から「主の神殿の庭に立って語れ」と命じられました。
その内容はこういうものでした。エレミヤ書の26章の2節から6節にこうあります。「ユダの町々から礼拝のために主の神殿に来るすべての者に向かって語るように、わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。彼らが聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの悪のゆえにくだそうと考えている災いを思い直す。彼らに向かって言え。主はこう言われる。もし、お前たちがわたしに聞き従わず、わたしが与えた律法に従って歩まず、倦むことなく遣わしたわたしの僕である預言者たちの言葉に聞き従わないならば、わたしはこの神殿をシロのようにし、この都を地上のすべての国々の呪いの的とする。」
「シロ」とはエルサレムの前に、最初に主の神殿があった町です。その町が退けられてエルサレムに神殿が立てられました。しかし、このエルサレムも悔い改めて御心に沿う歩みをしなければ、あのシロと同じように退けられる。そういう厳しい言葉をエレミヤは語ったのです。
この言葉を聞いた人々はどのような反応をしたでしょうか。8節にこうあります。「エレミヤが、民のすべての者に語るように主に命じられたことを語り終えると、祭司と預言者たちと民のすべては、彼を捕らえて言った。『あなたは死刑に処せられねばならない。』」
エルサレムに敵対する発言をしたからお前は死刑だというのです。
エレミヤはエルサレムに敵対するつもりはありませんでした。エルサレムを憂え、神が愛されているということを何とか告げようとしたのです。
無教会の指導者で内村鑑三という人がいました。彼は「自分は二つのJを愛する」と言いました。「二つのJ」というのは「Japan」と「Jesus」です。内村鑑三にとって主イエスを愛するということと日本を愛するということは一つのことでした。時には日本がやっていることに敵対するような言動にならざるを得ないこともありましたが、それはまさに日本への愛のゆえでした。
内村鑑三のお墓には次のような言葉が刻まれています。「我は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、そして、全ては神のために」。
主イエスを愛するがゆえにキリスト者として世に憎まれることも起こり得ます。
それは主イエスご自身とこの世との関係において既に起こったことでした。
今日の聖書の18節から19節で主イエスはこう言っておられます。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」
わたしの弟子であろうとする者であれば、当然そういうことは起こってくるであろうと主イエスはおっしゃいました。
そうでなければ本当のキリスト者ではない、ということまでは言えないでしょうが、この時、ヨハネによる福音書を読んでいた人々は実際にそうした迫害の最中にありました。その時に「主イエスもそうだった」ということを思い起こしたのです。それは大きな励ましと慰めであったでしょう。
私はこれらのことを自分自身に当てはめてみる時に、やはり自分の中にまだ主イエスに属する部分と世に属する部分があることを思います。自分の中で主イエスに属する部分と世に属する部分が並列しているのです。そして自分の中で対立が起きているのです。それに目を背けるのではなく、むしろ自覚しながら、世に属して世に従っていこうとする古い自分を、主イエスと共にいることで克服することが求められているのだろうと思います。
主イエスは最後に聖霊について語っておられます。26節から27節にこうあります。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」
聖霊はまことの弁護者です。私たちがいかなる状態にあっても、慰め、励ましてくださる神の力です。この聖霊が私たちを導いてくださるとの信仰をもって、私たちも主イエスの姿を思い起こしながら様々な苦難に打ち勝っていきたいと思います。
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