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「悲しみが喜びに変わる」
ヨハネによる福音書16章16~24節
水田 雅敏
今日、私たちに与えられた聖書の箇所はヨハネによる福音書の16章の16節から24節です。
16節にこうあります。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
この主イエスの言葉は17節そして19節と三度繰り返されています。
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」。この言葉の中で主イエスが特にポイントが置いて語っておられるのは「しばらくすると」という言葉です。
「しばらくすると」。この言葉はその途中の弟子たちの問いの中にも出て来ます。18節にこうあります。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう」。弟子たちも「しばらくすると」という言葉に引っ掛かったのです。
この「しばらくすると」と訳されているもとの言葉は「ミクロン」という言葉です。
「ミクロン」。この言葉は私たちも知っています。「ミクロン」というのは一ミリの一千分の一というほんの僅かな隙間を言い表すものです。あるいは「ミクロの世界」というような言葉があります。極めて小さいものの世界です。そのように、今日も様々なところで「ミクロ」「ミクロン」という言葉が用いられています。
ここではまことに短い時の流れ、まことに短い期間を表しています。
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」と主イエスは言われます。
これは私たちにもよく分かることです。「もうすぐ、あなたがたはわたしを見なくなる。わたしは十字架にかけられ殺されてしまう。姿を消してしまう」。
しかし、それに続けて主イエスは「またしばらくすると、わたしを見るようになる」と言われます。
主イエスはこのあと死なれます。死ぬこと、それを私たちは「永遠の別れ」と呼ぶことがあります。また、死んだ人のことを「永眠する」と言うことがあります。永遠に眠るのです。
主イエスはなぜ、「またしばらくすると、ほんの僅かな時を経て、わたしを見るようになる」と言われたのでしょうか。
主イエスがおられない、主イエスを見ることができない。それはただ単に肉体的に主イエスの姿が見えなくなるということではありません。主イエスが見えなくなる、神の恵みが見えなくなってしまうのです。
それは私たちの人生においても起こることです。
例えば、自分がどんなに元気であっても、自分の家族が悩みを抱え、病に倒れると、その看取りのために礼拝に出席することができなくなることがあります。礼拝に来るよりも、その愛の心のゆえに愛する者の傍にいなければならないという決断をします。当然のことでしょう。
あるいは、自分の人生の戦いに敗北を感じてしまって、礼拝に出ることができなくなることがあります。かつてはその人も一生懸命に礼拝に出ました。出ると、そこで喜びを体験します。信仰の仲間と一緒に神を仰ぐことができます。その時に既に悩みがあったかもしれませんが、なおそこで慰めを得ていたに違いありません。主イエスにお会いする喜びを、御言葉を聞き、聖餐に与るたびに感じていたに違いありません。しかし、それができなくなりました。
その時、その喜びは消えてしまったのでしょうか。礼拝で知る喜びを失ってしまったのでしょうか。
結局は、私たちも、今は、元気な間は礼拝に出ることができますが、やがてその輪から出て、自分の家なのか病院なのかは分かりませんが、あとはただひたすら悲しみの中で永久の別れを待つだけなのでしょうか。
そうではありません。そこで私たちはこの主イエスの言葉を聞くのです。「しばらくのことだ」という主イエスの言葉を聞くのです。
しかも、主イエスは「その悲しみが喜びに変わる」と言われます。20節の後半です。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」
21節ではそれを具体的な例によって語っておられます。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」
この言葉を読みながら、私はこう思いました。「ここで語られている、女が子供を産む苦しみというのは、主イエスが私たちを新しく神の子として生み出してくださるその苦しみをなぞったものなのかもしれない」。
主イエスも私たちを新しく神の子として生み出すために十字架の苦しみの中に立ってくださいました。そして、その痛みの中で我を忘れて「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫されました。
それはしばしの苦しみではありませんでした。「永遠の苦しみが続くか」と思うようなところに主イエスはお立ちになりました。
「しかし、その苦しみを忘れる時が来る」と主イエスは言われます。「『十字架もまた、しばしの時のものだったのだ』と言える時が必ず来る」と言われるのです。
どういうことでしょうか。
このあと主イエスは復活されます。復活されて、死の悩みはしばしのもの、ミクロンの悩みでしかないということを明らかにしてくださいました。
「ミクロン」というのはほとんど無きに等しいと言ってもよいのではないでしょうか。
しかし、それはどういうことでしょうか。私たちが今もなお悲しみや苦しみの中にあることを、主イエスは大変簡単に考えておられるのでしょうか。
そうではありません。主イエスが「その悲しみ苦しみもしばらくのものだ」と言われるのは、その苦しみ悲しみのただ中に神の霊、聖霊が来てくださるからです。
22節にこうあります。「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」
「わたしは再びあなたがたと会う」と主イエスは言われます。聖霊として再び弟子たちと会ってくださるのです。私たちと会ってくださるのです。
主イエスはこのあと十字架で死んで復活されます。そして、聖霊として再び弟子たちを捕らえてくださいます。私たちを捕らえてくださいます。
私たちだけではありません。礼拝に来ることができなくなった人、自分の家族のために心を奪われている人々を、主イエスは訪ねてくださいます。そして、声をかけてくださいます。「あなたは今、悲しみに沈んでいる。そのあなたをわたしが覆ってあげよう。慰めによって包んであげよう。その時、あなたの心は喜びに満ちあふれる。その喜びをあなたから奪い去る者はいない」。
こうして私たちは苦しみに耐えることができるのです。悲しみの中で持ちこたえることができるのです。主イエスとの交わりの中に踏み留まることができるのです。これが私たちに与えられている神の恵みです。
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