「私たちの友イエス」

                     ヨハネによる福音書151117

                                                   水田 雅敏

 

今日、私たちに与えられた聖書の箇所はヨハネによる福音書の15章の11節から17節です。

11節で主イエスはこう言っておられます。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」

15章の1節で主イエスは「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と言って話しを始められました。その話をされたのは「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためだ」と言われます。

信仰というのは喜びに生きることです。しかし、私たちはその喜びが私たちの心の一部分だけ、私たちの心の片隅にあるもののようにしか考えていないことがあるかもしれません。しかし、主イエスは「あなたがたは、今、わたしの喜びで満たされている」と言われます。私たちにはなお悲しみがあるかもしれません。痛みを覚えて辛い思いをするかもしれません。しかし、その私たちの存在を主イエスの喜びが満たしているのです。

12節にこうあります。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

「信仰の喜びに満たされている者は互いに愛し合う。これがわたしの掟だ」と主イエスは言われます。

私たちの歩む道には主イエスの掟があります。

14節に「わたしの命じることを行うならば」とあります。また17節に「これがわたしの命令である」とあります。

この「命じる」とか「命令」と訳されている言葉と「掟」と訳されている言葉は同じ言葉です。そして、この言葉には「使命を委ねる」とか「使命を任せる」という意味が含まれています。主イエスは、ご自分の務めを分けてくださるかのように、「互いに愛し合う」という使命を私たちに与えてくださるのです。

この使命に生きる時、「あなたがたはわたしの友だ」と主イエスは言われます。14節にこうあります。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」

この「友」という言葉を聞いた時、おそらく多くの人々は旧約聖書の出エジプト記の33章の11節の言葉を思い起こしたでしょう。

イスラエルの民の指導者モーセがエジプトを出発してシナイ山に至った時、そこで神から掟をいただきました。十戒です。ところが、その掟をいただいている間、イスラエルの民はその山のふもとで罪を犯しました。神々を拝もうとしたのです。偶像礼拝です。そこで、その罪を乗り越えて、もう一度、神の掟が与え直されました。それが出エジプト記の34章以下に書かれていることです。

それに先立って、33章の7節以下には、イスラエルの民が自分たちの罪を悔い改め、礼拝した時の光景が記されています。9節以下を読むと、こう書かれています。「モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」

これはモーセにだけ与えられた恵みです。人が親しい友と語るのと同じように、神は親しみを込めてモーセと語られたのです。

主イエスが「あなたがたはわたしの友だ」と言われた時、多くの人がこの記事を思い起こしたに違いありません。「わたしもモーセになった」という思いがあったでしょう。もうモーセだけの恵みではなくなったのです。主イエスに「わたしの友」と呼ばれる光栄が与えられたのです。

人間同士の友情というのは、一方では喜びをもたらすものです。しかし、他方では脆く崩れやすいものです。友情に伴う喜びと悲しみは誰もが経験していることではないでしょうか。

しかし、主イエスと私たちとの間に生まれる友情は全く違います。

13節に「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とあります。

これは言うまでもなく主イエスが私たちにしてくださった愛の業、十字架の業です。主イエスと私たちとの間に生まれる友情はこの主の献身によって支えられているのです。

既にヨハネによる福音書は3章の16節にこう書いています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

この言葉は、このような形で実現しているのです。

ご自分の命を捨てて私たちの友になってくださったお方、主イエスがおられます。

その主イエス愛を私たちもまた献身をもって人々に証しします。主イエスの友としてその命に生きます。そこでこそ確かな友情が生まれます。

主イエスと私たちはなぜ友なのでしょうか。それはわたしがあなたがたを選んだからだと主イエスは言われます。16節の前半です。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」

この主の選びは選択試験のようなものではありません。沢山の人の中から、「お前は見所がある」と言って選んでくださったのではありません。そうではなく、主イエスはこの世から私たち一人一人を引き上げてくださったのです。この世のしがらみの中にいた私たちが、もがいてどうしようもない不自由さの中にいた私たちが、その絆からもぎ離されるように、主イエスによって引き上げられたのです。

16節の後半にこうあります。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

この言葉は15節の後半の言葉と併せて読むと分かりやすいと思います。15節の後半にこうあります。「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」

「父から聞いたこと」というのは、神から聞いたこと、すなわち神の御心です。それを私たちに知らせてくださった。

それは私たちも神の御心を知ることができるようになったということです。つまり、私たちも、主イエスと同じように、神に祈れるようになったということです。だから、主イエスの名によって神に願うものは何でも与えられるのです。

主イエスが祈られた時、神が首を横に振られることはありませんでした。いや、一度だけありました。この苦しみは耐えられないと主イエスが言われた時に、そのゲッセマネの祈りを聞きながら、神は、なお死の苦しみの杯を受け取るようにとお命じになりました。

そして、主イエスはそれを神の御旨としてお受けになりました。

そのような神と主イエスとの親しい交わりの中に私たちを置いてくださるのです。

私たちはなお、悩みのある歩みを続けるかもしれません。苦しみのある生活を続けるかもしれません。しかし、主イエスの言葉に揺るぎはありません。

私たちは皆、例外なしに主イエスに選ばれた主の友です。そのことに大きな誇りを知ると共に、大きな喜びが満ち溢れます。

 

私たちは、この幸いを感謝し、その証し人になりたいと思います。