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「勇気を出しなさい」
ヨハネによる福音書16章25~33節
水田 雅敏
今日、私たちに与えられた聖書の箇所はヨハネによる福音書の16章の25節から33節です。
26節で主イエスはこう言っておられます。「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。」
「その日」という言葉があります。「その日」とは何でしょうか。
私たちはそれを知っています。今、体験しています。すなわち「その日」とは「今日」のこと、教会が生き続ける日々のことです。私たちが今、ここで味わっている「その日」と呼ばれるものが何であるかを、主イエスは語っておられるのです。
その一つの例がここに語られています。「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。」
「その日」に私たちが生きていることの明らかなしるしは、主イエスの名によって祈ることを知っているということです。「あなたがたはなぜ主イエスの名によって祈るのか」と人々から問われた時に、私たちは次のように答えることができます。「主イエスの名によってということは、主イエスを通してこそ神に祈ることができるということです」。主イエスが私たちの取り次ぎ役をしてくださるのです。
しかし、ここで語られているのはそれだけではありません。さらに驚くべきことが語られています。「わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。」
主イエスは、「『あなたがたに代わって神に願いごとをしてあげる』とは言わない」と言われます。どうしてでしょうか。
それは、私たちが主イエスの名によって生きている者として、主の名を身に帯びている者として、いつも祈っているからです。私たちの存在、私たちの生活、私たちの人生は皆、神への献げものなのです。そのようにして私たちの祈りはダイレクトに神のところに届いているのです。
主イエスはさらにこんなことまで告げておられます。27節です。「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」
「父御自身が、あなたがたを愛しておられる」。「あなたがたが、わたしを愛する」。ここで用いられている「愛」という言葉は「友愛」を示す言葉です。神と私たちの間、主イエスと私たちの間には友人の関係が成り立っているのです。
そういう言葉を使うことに私たちは躊躇するかもしれません。ためらいを覚えるかもしれません。「神と友だち、主イエスと友だち、そんな畏れ多いことは」というふうにです。
しかし、主イエスは「神があなたがたを友として愛しておられる。そして、あなたがたはわたしを友として愛する」と言われます。
主イエスを友とする私たちが神によって友とされる時、いちいち主イエスの取り次ぎを必要としません。神直通の祈りをすることができます。私たちが思い込んでいることよりも、遥かに深く、遥かに確かな、恵みとしか言いようがない神と私たちとの関わりが、ここに語られているのです。
私たちは、神と親子であるだけでなく、友人でもあります。
例えば、人間の場合の父と子の関係においても、父と子が親子という関わりだけではなくて、まるで友人のように親しいという思いを抱いた時に、父は子に対して新しい喜びを覚えるのではないでしょうか。ただの親子ではなくて、友人のように肩を並べることのできる喜びです。
そのように主イエスはご自分の神を私たちの友として示してくださいます。それが「その日」を生きる私たちの力となるのです。
しかし、「その日」が来るまでには大きな事件が起こらざるを得ませんでした。29節から30節にこうあります。「弟子たちは言った。『今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。』」
この弟子たちの言葉は、25節の「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた」という主イエスの言葉を受けてのことです。
その主イエスの言葉を聞いて、弟子たちは「あなたは今はもうたとえを語っておられない。それはあなたが語っておられることをわれわれがよく理解できるようになったからだ」と言ったのです。
よく理解できるようになったということは、今はもう主イエスにお任せしている、お委ねしているということです。それだけ何の不安もなく主イエスへの信頼に生きているということです。
しかし、主イエスはすぐにこう言われました。31節から32節です。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。」
「あなたがたが自分の家に帰ってしまって、わたしをひとりきりにする時が来る」と主イエスは言われます。
なぜ弟子たちは自分の家に帰ってしまうのでしょうか。恐くなるからです。主イエスを信じられなくなるからです。彼らは自分の家に帰って、そこでホッとするつもりだったのかもしれません。そこまで逃げれば安心だと思ったのかもしれません。
しかし、そうではありませんでした。実際は怯えに怯えました。彼らは主イエスが十字架につけられている間だけ恐くなったのではありません。主イエスが復活されたあともなお、自分たちの家の扉を固く閉ざして外に出ませんでした。そこに復活されたイエスが扉を打ち破るようにして入って来て、「あなたがたに平和があるように」と告げてくださるまでは、彼らの心は揺れに揺れていました。
これは他人事ではないと思います。既に明らかな「その日」に生かされ、「主イエスの名によって祈ることが許されている」と言いながら、私たちもまた、ついそのことを忘れて怖れを覚えると、自分の家がまだどこかにあるかのような錯覚に陥ります。
私たちが信仰から離れてしまうのは、自分の家が別にあると思うからです。本当は平和の場所ではない自分の場所になおこだわりを持ち続けて、そこに戻ったら何とかなると思うのです。しかし、そこに戻ってみても、ただ不安と恐れがあるだけです。
主イエスはここで大変はっきりしたことを語っておられます。33節にこうあります。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
「あなたがたには世で苦難がある」と主イエスは言われます。「世に生きている限り、いやむしろ、あなたがたが世に生きて、信仰を持って神を友としている時に、かえってこれまで知らなかった苦難に遭う」と言われます。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と主イエスは言われます。
私たちは、世の中に生きながら、単に世の中にあるのではありません。主イエスの中にあります。主の日の礼拝は、私たちが主イエスの中に生きているということの意味が改めてよく分かる時です。
私たちは、主イエスの名によって生きている者として、主の名を身に帯びている者として、この世の中を歩んでいます。その時、主イエスに従うがゆえに当然生まれてくる苦悩が新しく私たちにつきまとうかもしれません。いや、自分の悩みはそんな立派なものではないと言われる方もいるかもしれません。
しかし、主イエスはそのような悩みについても深い同情を持っておられます。友として私たちの全てを知りながら、「あなたの神、わたしの神も、あなたの友だ」と告げてくださるのです。そして、主イエスは既に世に勝っている、世に勝利しているという確信を、私たちに与えてくださるのです。
ですから、私たちは勇気をもって信仰に生きることができます。愛に生きることができます。希望に生きることができます。そのような祝福された人生を、私たちは今、歩んでいるのです。
この祝福に新たな人が加えられますように、一人でも多くの人が加えられますようにと、祈り続けていきたいと思います。
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