「主よ、みもとに」

                     マタイによる福音書142233

                                                   水田 雅敏

 

今日、私たちは創立記念日、永眠者記念礼拝を献げています。

私たちの教会1899年にM.B.マデン宣教師が仙台で伝道を開始してから125年を数えます。

1895年にアメリカより来日したマデン宣教師は、日本語研修を経たあと、ミッション本部の方針により、二年後に福島駐在の宣教師として東北に赴きます。

マデン宣教師は、福島での伝道を進め、1897年に福島教会の創立へと至るかたわら、仙台に伝道の拠点を模索していました。そこで1898年の7月に福島から仙台に住まいを移すと、9月に仙台講義所を設立します。

1899922日が私たちの教会の創立月日と伝えられてきたのは、この日が宮城県庁届出許可の日付であったからです。

その日から125年の間に、多くの人々が主イエスを救い主として信じ、救いの恵みに与りました。そして、主に従う人生の旅を終えて神の御もとへ召されていきました。

それから遡ること約二千年前、主イエスの弟子たちも主に従う人生を歩みました。

今日の聖書には主イエスの弟子たちが小さな舟でガリラヤ湖を渡った時の様子が書かれています。

その舟には、主イエスはお乗りになりませんでした。ご自分のあとを追いかけてきた群衆を癒したり、大勢の人々に食べ物を与えるなど、一日中働いたので、一人で静かに祈るためにあとに残られたのです。

弟子たちは自分たちだけで舟を漕ぎ出すと、突然、嵐に遭います。逆風が行く手を阻み、一晩中、荒波に翻弄されました。

夜が明ける頃、主イエスが湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれると、彼らは、悲鳴を上げました。てっきり幽霊だと思ったのです。

主イエスはすぐに声をかけられます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。

その時、ペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と叫びました。

口語訳聖書では「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」となっています。

嵐の湖で、一晩中、波と格闘した弟子たちは、力が尽きて、舟もろとも沈んでしまいそうでした。そこへ主イエスが近づいて来られました。ペトロは、それが主イエスだと分かって、「主よ、みもとに行かせてください」と歩き出したのです。

「主よ、みもとに行かせてください」。この願いこそ、主イエスに従って人生を歩む者たちの切なる祈りではないでしょうか。

ここに記念されている方々も、その人生において、逆巻く荒波にもまれることがあったに違いありません。その嵐の中を、主イエスは近づいて来て、声をかけてくださいました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。その声を聞き、勇気と希望を与えられたのです。

私たちも人生の嵐に襲われることがあります。どんなに努力しても、どんなに励んでも、光の見えてこない時があります。「このままではどうしようもない。助からない」と思う時があります。そういう中で、私たちは、主イエスの声を聞き、主に向かって歩み続けるのです。

信仰とは、一つのところに決然として別れを告げ、新しい目標に向かって歩み始めることです。

ここに覚えられている人たちにも様々な人生の転機がありました。洗礼を受けた時が大きな転機でした。亡くなる時には、愛する者たちと別れて、主のみもとへ旅立っていかなければなりませんでした。

ヘブライ人への手紙の11章の13節以下にはこのような言葉が書かれています。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです」。

私たちには帰るべき故郷、天の都があります。その都の中心に主イエスが立っておられるのですから、「主よ、みもとに行かせてください」と両手を差し伸べながら前進していくのです。

この目標があるから、慰めがあります。勇気も湧いてきます。希望を見失わずに生きていくことができるのです。

私たちの人生の歩みはいつ中断されるか分かりません。それでも、この目標だけは失われることがないので、歩み続けることができます。たとえ死ぬことがあっても、それは、主のみもとへ至る一里塚として、受け止めることができるのです。

主イエスは、私たちの人生のあらゆる苦難と罪を一身に担い、十字架の死を遂げられました。そして、神の力によって死者の中から復活させられました。

そのイエスが私たちの人生の旅の最後にも近づいて来られるのですから、私たちの人生は、もはや闇に向かうものではなく、その闇を突き抜けて、主の光のもとへ至るものであることがはっきりしたのです。しかも、十字架の主イエスの血によって罪も汚れも洗い清められて、主のみもとへ近づいて行くことができるのです。

これが聖書が告げる福音です。喜びの知らせです。

イギリスの豪華客船タイタニック号が1912414日の深夜、大西洋で氷山と衝突し、1513名もの人々がなくなるという、史上最大の海難事故が起こりました。その時、船と共に海に沈んでいく人々が楽団に合わせて歌ったのは、「主よ、みもとに近づかん」という賛美歌であったといわれています。海に呑み込まれていく恐怖の中で、主を見上げつつ歌ったのでしょう。

主イエスは、神のみもとからこの地上に来て、人間を罪と死から救い出す働きを成し遂げられて、神のみもとへと帰って行かれました。主イエスも、神を目指して、この地上を歩み通されたのです。

ここに記念している人々も主イエスを仰ぎながら進んで行きました。まさに主イエスは人生の水先案内人です。

ある詩人がこういう辞世の句を詠んでいます。「ああ、日没、明星が見える。そして、私を呼ぶささやかな声が聞こえる。しかし、私が大海に漕ぎ出る時には告別の悲しみがないようにと願う。なぜなら、波が私を遠くに連れて行くにしても、私は、私が浜辺を過ぎると、すぐに、私の水先案内人を目の当たりに見い出すことを信じているのだから」。

 

永遠の水先案内人である主イエスを見出して人生を歩み続けていく者は、まことに幸いです。