「主に赦された弟子」

                                            ヨハネによる福音書181227

                                                                                                               水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所には、主イエスの一番弟子であったペトロが、三度、主を否定した出来事が記されています。

15節から16節にこうあります。「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた」。

ここに「もう一人の弟子」が登場します。この人が誰であったかは分かりません。この人のお陰で、ペトロが門の中に入った時、突然、門番の女中がペトロに尋ねました。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」。

ペトロはとっさに「違う」と答えました。彼はまさかこんなところで問われるとは思っていなかったのではないかと思います。

人間誰しも、最初の嘘とはそういうものではないでしょうか。嘘をつくつもりではなかったけれども、不意を突かれて、思わず「違う」と言ってしまうのです。

ところで、今日の聖書には二つの出来事がかわるがわるに出てきます。12節以下で主イエスが大祭司のしゅうとであるアンナスのもとに連れて行かれ、15節以下でペトロが大祭司の屋敷の中庭に入る話しが出てきます。そしてまた、19節以下で主イエスが大祭司の尋問を受けて、25節以下でペトロが主を繰り返し否定する話しが出てきます。

このことは、場面転換が図られることによって、時が経っていることを示す効果があると共に、主イエスの裁判が行われている時に、実は同時進行的に、もう一つペトロの裁判が行われていたということを告げているのではないかと思います。

さて、ペトロは第一関門をくぐり抜けると、下役たちが焚き火にあたっている所で一緒に、おそらく少し顔を隠すようにしてじっとしていました。すると、下役たちに「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と尋ねられます。ペトロは「違う」と否定します。

すると、今度は、大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が出てきて、こう言いました。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」。彼ははっきり見ていたのです。自分の身内がペトロによって傷つけられたところを。「もう、あなたは言い逃れることはできない。あなたはあの男の弟子だ。わたしが証人だ」と言うのです。

ペトロは再び打ち消しました。これで主イエスを否定したのは三度目です。すると、すぐに鶏が鳴きました。

それにしても、ペトロはどうして大祭司の屋敷の庭にまで入っていったのでしょう。ほかの弟子たちは既に逃げ去っています。

15節に「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った」とあります。「従った」という言葉にハッとさせられます。

この「従う」という言葉は、ペトロが主イエスに召し出されて「網を捨てて従った」というのと同じ言葉です。この時、ほかの弟子たちが逃げていく中で、とにかくペトロは主イエスに従おうとしたのです。ペトロは、単に主イエスのことが心配で見に来たというのではありません。最後まで従いたいと思ったのです。

しかし、主イエスを否定しながらも従っていこうとするこのペトロの行動は、不可解です最初の時の反応はとっさであったとしても、そのあとは何とか切り抜けようとしている様子が伺われます。

今、大祭司による主イエスの尋問が行われています。しかし、ペトロは、そこへ行くことはできません。「もう少しすれば、あのピラトによる裁判が始まる。群衆の目の前で主イエスの裁判が始まる。その時まで何とか持ちこたえなければならない。今、ここで捕まることはできない。もしも主イエスの裁判の時に主に不利なことが起きれば、自分が飛び出そう。そして、主イエスが、どんなに素晴らしい方であるか、どんなに素晴らしいことをしてくださったか、自分が証人になろう。それでも差し止めることができなければ、自分も一緒に裁きを受けよう。『自分は主イエスの弟子だ』と名乗ろう。死んでもかまわない」。そう思って、ペトロはチャンスを伺っていたのではないでしょうか。その時をじっと待っていたのではないでしょうか。

ところが、主イエスの大きな裁判が始まる前に、ペトロに対する小さな裁判が既に始まっていました。そのことにペトロは気づいていません。ペトロにしてみれば、「こんなところは、まだ自分の出番ではない」と思っています。「こんなつまらない場面で大騒ぎになれば、いったい何のためにここまでやって来たのか。ここは何としても切り抜けなければならない。門番の言葉や下役の言葉などに自分の命を張る価値はない。その辺の人々の言葉などに自分の命をかける必要はない」。そういう思いだったのではないでしょうか。

私たちの日常の生活は、些細なこと、取るに足りないことの連続です。しかし、実は、そんな何でもないようなところで、主イエスに従うかどうかが問われているのではないでしょうか。妻との会話、夫との会話、子供との会話、親との会話、職場での会話、学校での会話、そういう何でもないようなところで、実は、自分の信仰が問われているのではないでしょうか。自分がキリスト者であることを知られたくないような場面で、私たちの裁判が始まっているのです。

ペトロは、自分が主イエスを否定したとは思っていなかったでしょう。今、ほんの少し距離を置いただけです。今でも主イエスの弟子のつもりです。いざとなれば、死を覚悟することもあるかもしれないと、心の準備をしようとしているところです。彼は、ほんの小さな距離、自分と主イエスの関係は、こんな些細なことでは崩れないと思っているのです。

私たちも、そういう小さな場面で、いかにしばしば、主イエスに距離を置いていることでしょう。教会では様々なところで主イエスを証しすることができますが、誰も見ていないところでは主イエスと距離を置きたいと思うことがあるのではないでしょうか。「ペトロはあれだけのことを言っておきながら、よくも三回も主イエスを否定したな」と私たちは思いがちですが、しかし、自分自身に照らしてみれば、あっという間に三回ぐらい、主イエスに距離を置くことがあるのではないでしょうか。

その時、ペトロは鶏が鳴いてハッとしました。

ほかの福音書は、その時、ペトロは「激しく泣いた」と記しています。主イエスが語られた言葉を思い出したからです。かつて、ペトロが「主よ、あなたのためなら命を捨てます」と言った時に、主イエスはこうおっしゃいました。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。あなたは、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。この言葉を思い出したのです。

そして、自分を責め、自分の弱さを嘆き悲しんだことでしょう。「主イエスに申し訳ないことをした。自分は何と強がりを言っていたのだろう」。

ペトロは、そうした自分の弱さを思わされたと同時に、主イエスがそれに先立って語られた言葉も、頭によみがえってきたに違いありません。それは「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」という言葉です。「あなたはいったんはわたしのことを知らないと否定するだろうけれども、後でついて来ることになる」。主イエスはそこまで読んでおられたのです。

ヨハネによる福音書は、一番最後の所で、復活の主イエスがペトロに出会う記事を記しています。共に食事をしたあとで、主イエスがペトロに「この人たち以上にわたしを愛しているか」とお尋ねになりました。ペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、主イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。そうしたことが三回繰り返されるのです。

それは、ペトロが三度、主イエスを否定したことを、主が「わたしを愛しているか」と問いながら、それを赦していかれたということです。そして、「わたしの羊を飼いなさい」という、そのあとのペトロの使命を語られたのです。

鶏の鳴き声を聞いたことは、ペトロにとっては有罪の宣告を受けたようなものですが、彼はそのあと、主イエスに赦され、次の使命まで与えられるのです。

ここに主イエスの大きな愛があります。どんなに裏切られても、どんなに捨てられても、主イエスのほうからは決して捨てることはないのです。

このあとペトロは、いわば教会の創始者になっていきます。福音書が書かれ始めた時には、ペトロは押しも押されぬ大指導者でした。

今日の聖書はそのペトロの過去を告発するような話です。どうしてそのような話が残されているのでしょうか。

おそらく、ペトロ自身が、どこへ行っても、自分の信仰の原点として、この話をしたのではないかと思います。「あの出来事なくしては、今の自分はあり得なかった」。自分の弱さをさらけ出すようにして証しをし、それが教会の中で伝えられていったのです。

 

この主イエスの愛は、私たちにも注がれています。私たちも、ペトロのように、主イエスの赦しの中で立ち上がり、主に従う生活を日々造っていきたいと思います。