彼をじっと見た

             使徒言行録3章1~10節

                水田雅敏

 

 この箇所には「見る」という言葉が何度も使われています。これは門に座っていた男の視線と世に向かって遣わされた弟子たちの視線とがピッタリ合ったということです。ほとんどの人々はこの男に関心を向けることはありませんでした。お金を与えた人はいたでしょう。しかし、彼の存在そのものに関心を向ける人はいませんでした。そのような中でペトロとヨハネは彼に積極的に関わろうとしたのです。

ペトロとヨハネはいつからそのような行動を取ることができるようになったのでしょうか。聖霊を受けてからです。1章の10節に「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」とあります。このとき弟子たちの視線は上に向いていました。しかし、聖霊を受けたあとはその視線を下に向けることができるようになったのです。弟子たちが遣わされた場所、それはこの世でした。この世が関心を向けないところをしっかり見るようにと遣わされたのです。自分のことしか考えられなかったような彼らが他者の存在にまで関心を向けることができるようになったのです。

現代の社会の特徴を表すものに無関心があります。そこにいる人に関心を向けないのです。視界に入ってきてもそれを見つめようとしないのです。見つめることは物質的な豊かさを保証するものではありません。けれども、それはその人の存在を認め、その人に関心を持ち、その人との関係を始める第一歩です。

イエス・キリストの名によって建てられている教会には伝道という使命が託されています。その使命のうち御言葉を宣べ伝えることに力を注ぐことはとても大事なことです。けれども、それと同じように大事なこととして、教会にはこの世に対して癒しの働きを行うことも託されています。

もしかすると私たちはそのことに対して少し躊躇があるかもしれません。そんなこと私

にはできないと思ってしまうかもしれません。確かに教会は生まれながら足の不自由な人が立ち上がって歩くことを保証することはできません。しかし、それでもなお教会には癒しの使命が与えられています。それは足の不自由な人を立ち上がらせるという現象としての癒しを保証することではなくて、そのように痛んでいる人々の存在に関心を向けることです。

教会がこの世から遊離して建てられているのではなくて、この世のただ中に建てられているということは、教会にそういう使命が与えられているということでもあります。そのために教会の視線は天に向けられると共にこの世にも向けられるのです。特に人々の関心が向けられにくいところに目を向けていくのです。そして、そこにも主の恵みがあることを告げるのです。その人々のためにも主が働いてくださっていることを証しするのです。

 

私たちにいったい何ができるのかと自ら問いかけると、私たちにできそうなことは僅かなことかもしれません。しかし、この世に対して視線を向けることは誰にでもできます。主の名によって奉仕することはできます。私たちはこの世に福音を伝える教会の枝として主に仕えていきたいと思います。今日その志を新たにしたいと思います。